SFをもっと好きになるために
今日『Ghost in the Shell』見ました。
押井守監督の。Ver.2.0は見たことあるんですけど、オリジナル版は初めて見ましたねー。
で、これを見ていた時にずーっと考えていたんですが、現代……つまり2010年代以降は、本当にSFを書きづらい時代になったんだなと。
だって昔は車が空飛んだりホログラムが浮いてたりすればSFで近未来だった。
インターネットが出来上がった時も、
「ネットで買い物でもコミュニケーションでも何でも出来る」
というだけでワクワクする。
今は車が空を飛ぶことはないし、ホログラムがふわんふわん浮いている街並みもない。
けれどそれより便利なインターネットがあって、
しかもそれは現実世界との親和性が極めて高い。
Amazonでポチって、Netflixで映画を見て、デジタルストアで本やゲームをダウンロードして、
ネット通話とメッセージで友達と連絡しあえる。
それどころか、知らない人ともコミュニケーションを取れる。
2010年代の現実は、BTTFみたいに夢のある世界にはならなかったけれど、それ以上に便利だ。
なればこそ、時代を反映し、その未来を描き警鐘を鳴らすSFは、この先何を描くのか。
僕は考えました。
今、こうしてブログを書いているのも、Twitterで告知するのも全部入りインターネットでのやり取りです。
アナログな日記に頼らなくとも、デジタルにずっと残せる。
それが日常になり、もしそこにコメントがもらえたりとか、
それがなくとも普段Twitterでフォロワーさんと会話でもしていようものなら、
それが日常の一部として切り離せない存在に変わる。
コンビニがスーパーに取って代わったように。
それはつまり、
「現実とデジタルの境界線の揺らぎ」
と言えるんじゃないか。
Twitterで炎上したら、現実の自分が凹む。
それってネット上の自分(アバター、アカウント)が現実の自分(ホスト)に影響を与えているってことですよね。
かつて『若きウェルテルの悩み』という本が幾人もの若者を死に至らしめた。
物語が現実に作用した有名な例だ。
それがネットに置き換わったわけで。
学校でみんなに無視された(イジメ、という言葉は酷く軽く感じられる)から自殺した……
というのは悲しくもたまに起きうるニュース。
Twitterでブロックされたから自殺する、というと
「そんな理由で……」
と思ってしまう人が多いかもしれない。
でも段々、それが前述の理由と同じくらいの重みを持つようになると思う。
「現実とデジタルの境界」。
これが攻殻機動隊を始めとする、90年代のSFだったんじゃないかと思う。
『Lain』とかまさにそういう話ですね。大好き。
で、2010年代の命題はというと、
伊藤計劃氏の『ハーモニー』や柴田勝家氏の『ニルヤの島』のような、
「生と死の境界」なんじゃないかと思う。
人間の脳は、容量に置き換えるとおおよそ2TBと言われています。
(昔はもうちょい少ない見積もりだったんですが、最近また変わったらしい)
でも最近のパソコンってそれ以上のHDD積んでたりしますよね。
極端な話、人間一人の記憶全部をバックアップするのも不可能じゃないかもしれない。
で、記憶をまるごと外部保存できたとしたら、それをどこかに上書きできたら、
その新たなる素体を同じ人間と呼べるだろうか。
もしもそれが同じなら(攻殻機動隊等で何度も問われてきたこの問を乗り越えたら)、
死を否定できるんじゃないか。
それが前述の二作で描かれている。
長くなったからもうまとめますけど、
突き抜けて「生と死」という
永遠の命題に辿り着いたんじゃないかな……と。
スマホで2000字も打つと流石に疲れた。
なんか投げやりだけど。というか何でこんな話しようと思ったのか。
まいいか……。
みんな!!
SFアニメを見よう!!
紙の本を読みなよ!!